明日からテストというときに、妹とゲームに興じる中二の男子
普段からうるさく言わないように気をつけているのですが、明日からテストという今日にもなって、妹と大騒ぎをしながらゲームをする中2の息子を見て、これでいいのかと迷います。 ここは親として厳しくひとこと言うのがよいのではないかと思ったりもします。「見守る」の境界がよくわかりません。
喉にこみあげるひとことを我慢するその瞬間・・・、よくわかります。子どもを育てたことのある人なら、すべての人が体験するあの感覚です。 うるさく言わないほうがいい、と分かっていても、「ここで本当に言わなくてもいいの?」と思う瞬間がありますよね。 その境界とはどこか!リトマス試験紙みたいなものがあって、子どもにかざすと青と出た、ここは言っておこう、などというものがあれば最高ですが。 その境界は、親の中にある「感覚」でしかありません。 その感覚とは親の中に蓄積された子どもに関するデータベースです。これまでずっと見守り、観察してきたその子に関する情報のすべてです。 赤ちゃんのころは、うんちの様子から健康状態を知りました。 トイレトレーニングも様子を見ながら、今というときにオマルに誘いました。 熱を出した時も、なんだか様子が変だと思ったときも、いつも私たち親は観察力を駆使して子どもを育ててきました。その情報を信じることです。自分が親として子どもの情報を持っていることを信じることです。 そして、中2になった息子さんが、テストの前日に妹とゲームに興じる姿を見て、彼がこのまま、明日のテストの準備をせず、ずっと妹とゲームをしてしまうと思いますか? あなたのデータベースに答えを聞いてみてください。きっと答えは「No」です。彼は今、息抜きをしているのです。気分転換ができれば、学習に戻るでしょう。 ところがここで「そろそろゲームはやめて、勉強したら。明日はテストでしょ。」などと親に言われたら、彼はきっと、やる気をなくします。 そのひとことは彼のやる気を先取りする言葉だからです。ゲームをしながら彼は「もうちょっとやったら勉強に戻らなきゃ」と思っています。 それを自分で実行するとき、彼はやる気を出しています。ところが、親に先に言われてしまうと、それはもう彼自身のやる気ではなく、親に言われてやることになります。 人はそれを嫌がります。何か行動を起こすときは、自分のやる気を使いたいのです。 もっと子どもが幼いころは、私たち親はよく声を掛けました。「あれしたら」「こうすれば」と。 子どもはその声かけに応えて、動くタイミングを覚えて行ったのです。 ところが10代になると、その声かけを嫌がるようになります。自分で自分に声をかけたいのです。 その心の成長を尊重しましょう。